何者にもなれないことを嘆くボカロ曲がやたら視界に入ってくる
最近、何者にもなれないことを嘆くボカロ曲がやたら視界に入ってくる。
これとか
これとか
これも
最近はdigることをしなくなり、YouTubeの関連動画やTwitterからしか情報を仕入れていないのに、この手の歌を聴くことが多い。
(趣味嗜好を知り尽くしたGoogleに偏った音楽ばかりレコメンドされているだけかもしれないが)
そんな歌たちは、会社勤めを始めて早2年となる僕にバリバリ刺さってる。
自分は特別な存在なんだ!と狭い世界で息巻いていた学生も、
優秀な人たちに囲まれて働き始めれば己の凡庸さ、未熟者さ、矮小さを突き付けられ、
あの頃の自信は泡のように消えてしまった。
趣味でDTMをしていたため、いつか自分の曲が有名になったらなぁなんて淡い夢も抱いていたが、働き始めれば趣味に裂ける気力、時間が全然足りず、一番最後にDAWを起動したのはいつだったか思い出せない。
学生のころだってなんとなく現実は見えていたけど、宝くじの1当が当たることを期待するような、一抹の希望は抱けていた。何者かになれると信じてた。
だけど、あくせく働く毎日の中で悟ってしまった。
僕は会社でも趣味の世界でも何者にもなれないのだと。
軽く自分語りをしたけど、同じような思いを抱く同年代の人は沢山いるんじゃないかなぁ。
「個性の尊重」が声高に叫ばれる時代のせいで個性的な何かにならなきゃという焦燥感を抱き、
アイデンティティの獲得のため、作曲やらイラストやらの創作を始め、
年を重ねるにつれ現実が見えてしまった人たち。
そんな僕らは中高生の頃に大流行したニコニコ動画でボカロを聴いて育ってきて、
今でもボカロは好きだけど、奥深いストーリーや独特な世界観を持つ歌詞に思いをはせるよりも、自分の心情を歌う歌を求めるようになった。
ファン層の中心だった学生が大人になり、ボカロシーンでウケる曲も変わってきたのかなー、なんて紹介した曲たちを聴きながら考えてました。
最後に、
何者かになりたい!と思い続ければ一抹の可能性に縋って夢は見られますが、理想と現実のギャップ、年々消えていく可能性といった悩みが付きまといます。
そもそも「何者か」って具体的に何さ。そこが曖昧なままだから何者にもなれないんだよ。
だったらいっそ平々凡々な人であることを受け入れて、ゆるく生きたほうがいいんじゃないかなー、というのが最近の思い。
そう思い始めるきっかけとなったのがこの歌。
諦めることは寂しいけれど、そんなに悪いもんじゃないよ、と教えてくれる歌です。
人の心はすぐには変わらないもので、何者かになりたい欲は完全には捨てきれてないけれど、ちょっとずつありきたりな自分を受容していきたい。
「わたしの苦しみと青春は終わった」って歌詞が本当に好き。